執筆者:
村木 宏吉氏(元労働基準監督署長)
目次
経営者は、「安全」を自分のことと思っていないことも
多くの経営者は、普通に(ほぼ必ず)「安全第一」といいます。しかし、必ずしもその意味を理解していません。
親会社からの天下り、他社からのヘッドハンティング、プロパー社員からの抜擢、経営者の身内からの登用等々、企業は様々な経過を経て社長を任命しています。任命された社長の中には、経営者の責任としてまず業績回復、上手くいけば「自分の手柄で会社をさらなる成長軌道に」と考えている方が少なくありません。そして、売上げと利益に目が行く経営者には、従業員の安全と健康、顧客の利益、企業の社会的責任などへの関心が薄いことがよくあります。
過去、実際にあった例として、ある生命保険会社が挙げられるでしょう。ヘッドハンティングされた社長は、売上げ向上、利益拡大を号令し、認知症の高齢者から月額数十万円にものぼる保険料を納める契約をさせるなど、問題発生につながりました。その時の経営者は、公営よりも民営のほうが経営の効率はよく、利益がすぐに出せる、との幻覚に溺れていたのです。
現在の我が国の法令では、労働災害防止は企業と労働者の雇用関係における企業側(使用者側)の債務(責任)とされています。契約書にそのことが書かれていないのは、書くまでもない当然のことだからと判例で認められています。しかし、そのこと(企業側の責任)を理解している経営者は必ずしも多くありません。
「安全第一」の発祥
ご存じの方も多いと思いますが、「安全第一(Safety First)」という言葉は、昭和の初め1900年代初頭にアメリカで生まれました。当時世界最大の鉄鋼会社であるUSスティールにおいて、社長のエルバート・H・ゲーリーが、それまでの「生産第一、品質第二、安全第三」という会社の方針を「安全第一、品質第二、生産第三」に変えたことが発端だとされています。
彼は、熱心なクリスチャンであり、労働者たちが日常的に発生する労働災害に苦しむ姿に心を痛めていたということです。その彼は、経営者となったとき、人道的見地から経営方針を根本的に変えたのでした。
その結果、労働災害が減少したことにより労働者の出勤率が上がり、品質・生産性も向上して、その後上向いた景気に合わせて業績向上を達成しました。そのような成果もあって、「安全第一」という標語はやがてアメリカ全土に広まったのみならず、世界中に広まり、我が国にも伝わりました。日本では、当時は「安全専一」と翻訳されたそうです。
「安全第一」は、「安全専一」から変化し、昭和3年(1928年)から始まった全国安全週間のテーマとなっています。 全国安全週間は、その後戦時中も一回の中断もなく今日に至っています。
ある上場企業のスローガン
筆者が公務員の時、ある上場企業に行きました。そのとき、職場のあちこちに掲示されているスローガンを見て驚きました。そこには、「ゼロゼロ作戦」として、次のように書かれていました。
・品質の向上をはかり、不良ゼロを!
・コストダウンを合言葉に、ムダゼロを!
・納期を守って、遅れゼロを!
・安全第一で、ケガゼロを!
私は、そのとき応対していただいた課長さんに、「安全第一が4番目は恥ずかしいから、この掲示はやめませんか」と言いました。しかし、その課長さんは、「これは役員の発想による取組なので、やめることはできません」とおっしゃいました。
事務所の入口から始まり、工場の至る所にあるこの掲示を見て、労働者はどのように感じるでしょうか。また、これを全社的に取り組むこととした役員の得意満面そうな笑みも思い浮かびました。笑いを取ろうと失言して大臣を辞任することになった国会議員にも似ています。
しかし、そのスローガンの結果として労働災害に遭われた労働者やそのご家族にとっては救いようがありません。会社の利益優先という経営姿勢の犠牲者とでもいうべきでしょうか。事実、この会社では、一向に労働災害が減少しませんでした。この会社と同じ労働基準監督署管内の別の上場企業では、「安全第一」として次のように掲示されていました。
・安全はすべての作業に優先する。
・安全はいかなる業務よりも重要である。
・安全第一とは当然に生産能率は第二か第三であることを意味する。
・安全は生産能率の基盤であり安全と能率は決して矛盾することはない。
・安全は先ず作業環境の整理整頓からはじまる。
どちらのスローガンが、労働者のやる気をかき立てるかおわかりでしょうか。というよりも、ここまで言わなければ、「安全第一」を徹底することは難しい、ということがいえるでしょう。
「安全装置を殺すよう」に会社が教育した?
労働災害が多いので、一通り社内を見て助言してほしいというある企業に行きました。そこは大手企業の100%子会社の食品メーカーでした。全国にいくつかある同社の工場すべてを回りましたが、その最初として本社工場に行ったときのことです。
工場の最終部門では、製品(食品)ができあがって段ボール箱に詰め込まれ、それが産業用ロボットによってパレットに積みつけられていました。そのまわりはフェンスで囲まれていましたが、ロボットが暴走したときその他の緊急対応が必要な場合のため、一部にドアがあり、その脇に非常停止ボタンが設けられていました。ドアには安全ブロックがセットされており、ドアを開けるとロボットが急停止するようになっていました。
その一方、非常停止ボタンのすべてに段ボールで囲いが設けられており、すぐに押すことができないようになっていました。案内してくれた社員の方々は、何事もない様子でそこを通りすぎようとしたので、私は呼び止めてこの段ボールの囲いの意味を訊きました。
社員の1人が、「このロボットを導入したときに、我々が通りがかりにボタンに接触し、非常停止が作動してしょっちゅう止まっていたので、私が停止しないように工夫したのです」と説明してくれました。
しかし、私は、「ロボットが暴走したときにすぐに止められないと、生きるか死ぬかの災害につながることがある」旨を説明し、非常停止ボタンの囲いをなくして本来の形に戻すべきこと、もし労働者の通りがかりに接触して困るのであれば、通行の邪魔にならず、いざという時に誰でもすぐ押せる位置に非常停止ボタンを移動させるべきと助言しました。
そのあとで、役職者の方たちに、「彼があのように発想したのは、これまであなた方が自覚しないまま生産を第一に考えるように今まで長年にわたって教育してきた成果であり、彼を責めてはいけません。しかしながら、会社のそのいわば生産第一的な体質を改善しないと、昨年の死亡事故がまた起きるかもしれません」と申し上げました。
2人の経営者の差
日本経済新聞で長年にわたって続いている様々な経営者等の連載に「私の履歴書」があります。ある大手鉄道会社の経営者は、その最終回の末尾に「株式会社は株主のためにある。これからも株主のために頑張る。」と結びました。連載中に、公共交通の社会的使命とか、輸送の安全に一言も触れていなかったことが印象的で、私はとても驚いたことを覚えています。
一方、破綻した日本航空を無報酬で立て直した京セラの稲盛和夫氏は、主催する稲盛塾で、ある経営者が発表した経営方針に対し、「会社の目的は、従業員を幸せにすることにある。あなたの作った経営理念には、従業員のことが何もうたっていない。そのような独りよがりの経営理念はない。」という趣旨の怒りの言葉を発したそうです。
近年、企業のステークホルダーという言い方が使われています。利害関係者といった意味で、株主や労働者だけでなく、取引先企業とその労働者、労働者の家族、会社周辺の近隣住民も含めるとのことです。活動する地域の自治体なども含まれるでしょう。企業活動は、これらのステークホルダーすべてに対して、満足度を高めていかなければならないということだそうです。
そこで、労働者の幸福とは何か?となります。高賃金、好待遇、その他の好労働条件はもちろんですが、仕事のやりがいや働きがいもあるでしょう。しかし、死亡したり、負傷したり、病気になったのでは意味がありません。すべての前提に「安全」があるのです。
数年前ですが、大手食品メーカーであるキユーピーの社長がテレビ番組において、「従業員満足度を高めなければ、顧客満足度を高めることはできない」と言っていたのが印象的でした。
労働安全衛生法が求めることとは
労働安全衛生法には、「労働災害を発生させたら処罰する」という条文はありません。なぜなら、労働災害をゼロにするためには、莫大な費用が必要だからです。そこで、事業者(会社)が行わなければならない事項を法令に定め、これらをすべて実行している場合には、労働災害が発生したとしても処罰はしない、という構成にしてあるのです。
科学技術が進歩し、安全装置等が安価になり、多くの企業が利用できるようになれば、法令改正によりそれらの労働災害防止措置を事業者に義務付ける、ということが我が国で長年にわたり繰り返されてきました。最近では、安全帯を墜落制止用器具と名前を変え、フルハーネス型を原則としたのがその一例です。
企業に実現不可能な負担を求めず、将来にわたって労働災害ゼロを目指すという政府の方針に基づく現実的な対応です。そして、労働災害が増えて労災保険会計が赤字となれば、労災保険率(保険料率)を上げて保険料を増やす対策を講じます。この保険率は3年ごとに見直されています。
また、何年か前には、リスクアセスメントを実施することが、労働安全衛生法で事業者に義務付けられました。しかし、まだ罰則の適用はありませんので、「努力義務」とされています。リスクアセスメントとは、発生する可能性のある災害の重篤度と、それらの発生確率との両方を考慮し、その防止対策を実施しなければならない必要性の順序を付ける。その優先度に応じて対策を講じることで、費用対効果の高い対策が実施できる、というものです。設備の設置や作業を開始する前、事前に行うことに意味があります。
費用対効果を考慮することは、限られた予算をより有効に使う手段です。現に、鉄道駅に設けられるホームドアも、列車との接触事故が多い駅から整備していくことが、費用対効果の高い取組となり、列車本数と利用者数に応じて実施の順番付けをすることで、限られた予算を有効に使うことにつながっています。そのため、まず大都市部、しかも乗降客が多く、駅の構造上これまで事故が多かったホームが優先されます。
ところで、多くの企業で見落とされがちなのは、リスクアセスメントは法令違反がないことがスタートラインだということです。法令違反が残っているようでは、「リスクアセスメントに取り組んでいます」とはいえないのです。大手企業といえども、法令違反が放置されているところを時々見かけるのは、残念でなりません。
是非、皆様方の職場で、まず法令違反ゼロを実現し、しかる後、リスクアセスメントに取り組んでいただきたいものです。労働災害ゼロこそが、労働者が健康で企業発展(業務)に取り組む礎なのです。