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経営者は何を見ているか
多くの企業経営者は、売上と利益の経年変化を見ています。両方共に上昇傾向を維持していれば、成長軌道に乗っているということで、経営は安泰といえるでしょう。さらには、株主資本利益率などの指標の経年変化を追っています。
そのこと自体は、経営者であれば当然のことです。しかしながら、利益を出すことを第一番として力を入れていると、安全衛生管理がおろそかになることがあります。
例えば、鉄道会社や航空会社は、車両や軌道あるいは航空機という交通手段をきちんと維持管理していなければなりませんが、ある時、利益を出すために定期点検の間隔を少し延ばすということをした企業がありました。思惑どおりに利益は増加したのですが、機材の故障が増え、電車の立ち往生や飛行機の定時発着率の低下という結果が生じました。そのため、結局両社ともに、まもなく元の点検間隔に戻しました。
機械等(機械、器具、その他の設備)の定期点検でいえば、福知山線の脱線事故について、鉄道事故調査委員会が調査した結果の1つに、運転席のスピードメーターが、整備不良のため速度が遅く表示されていたということがありました。これを受けて国土交通省は全国の鉄道事業者に対し、スピードメーターといえどきちんと点検整備をするようにとの指示を文書で出しました。
ある建設重機メーカーでは、都道府県ごとに支店を置き、その下に複数の営業所を運営して建設業や林業の顧客へのサービスを行っていました。支店長の中には、自社工場の機械等の点検整備費や老朽化した機械等を新しい物へと更新する費用が、支店の売上げから支出する結果、支店の利益が減るので実施せず、古い機材をそのまま使用し続けている例もありました。
ほんの数年前のことですが、その会社のある工場を拝見したとき、配電盤がすべてヒューズ式だったので私は驚きました。その電源ボックスには、漏電を検査する機関が書いた「ヒューズ式をやめてブレーカーを設置してください」との10年ほど前の注意文書がそのまま残されていました。
その会社への労働災害・事故防止のための助言として、私は、本社の安全衛生部門の役職者に、そのような支出が支店の利益から差し引かれて、支店間の業績比較される制度を改めないと、労働災害を防ぐことはできない旨を助言しました。
安全衛生=労災事故防止、の知識がない経営者にどう予算を要求するか
生え抜きの社員を例に取れば、いきなり経営者になることはまずなく、だんだんと役職の階段を上がっていき、役員になってしばらくしてからヒラ取締役から常務取締役、専務取締役、副社長といった形で昇進していきます。時に関連会社に出向することもあるでしょう。こうした中で、安全衛生、すなわち労働災害防止に関する知識を持っていただく必要があります。
そうでないと、機械等の点検整備費や、安全装置の導入費用、機械等の更新、あるいはより安全性の高い新たな機械設備の導入のための予算要求をしても、「経費削減」をうたい文句にその必要性を認めてくれないこととなりかねません。もっとも、「法令違反になるから」となれば認めるかもしれません。
筆者が公務員の時、立入調査をした企業等に対し、是正勧告書という形の文書で法令違反の指摘とともに安全衛生管理等に関して改善を求める文書を会社の安全衛生担当責任者に渡す仕事をしていました。
受け取った方々のほとんどはそれなりの役職者でしたが、文書を渡したとき、よく「ありがとうございました」と言われました。立入調査に入った当初はいかにも迷惑そうな態度であったのに、「この文書があれば上から予算を確保できる。そうしなければコンプライアンスが達成できないし、そもそも老朽化した設備では労働災害が防げないから」との思いが言葉になったものであろうと推察されました。
経営者に対する安全衛生教育をどうするか
ある大手企業の子会社では、課長職に任命される条件の1つとして第一種衛生管理者免許を取得すること、としていました。同社では、すべての課長職には労働者の健康管理に関する基礎知識を持ってもらうことが必要であると考えており、この免許試験に合格する程度の知識が最低限必要と考えているからだとのことでした。
そして、新任課長はどの部署であっても、安全衛生委員会にオブザーバーで出席させるなどして、安全衛生統計の見方や、会社と工場等の出先での安全衛生に関する取組状況などを理解させるようにしていたのです。そのため、工場長ともなれば、その事業所の安全衛生委員会において、事務局が発表する度数率と強度率を見て、「災害が増えている。これはいかん」などと発言しているほどでした。
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全国の労働基準協会(神奈川県だけは神奈川労務安全衛生協会)では、経営首脳者向けのセミナーを開催しているところが多いので、執行役員または取締役に就任する際に受講してもらうことも考慮すべきでしょう。テーマはそれぞれですが、労務管理や安全衛生関係のものが多いようです。労働基準法や労働安全衛生法などの労働関係法令が改正された際には、それに関するテーマのこともあります。講師には、都道府県労働局の幹部が招かれることが多いようです。
万一、労働災害が発生し、悪質であるとして労働基準監督署から検察庁に送検された場合、単に担当責任者が処罰されるだけにとどまらず、法人にも罰金刑が科され、法人に前科がつくことになります。このようなことを役員が知る機会としての教育を、会社として役職の段階に応じて継続的に行なっていれば、「安全衛生はだれのため?」でご紹介したような、安全第一が4番目に来るような役員の発想は出てこないはずなのです。
また、安全衛生管理活動は、企業のコンプライアンス対策の一環であり、企業経営上避けて通ることは許されません。
関連会社への出向者は、「安全衛生管理」で成長した経営者となる
ご自分が就職した会社では、安全衛生業務に接する機会がないこともあるでしょう。あえてそのような業務に就くことを人事異動で希望するかたはあまりいらっしゃらないかもしれませんが、関連子会社などの他社に出向することにより、安全衛生という業務を知る場合もあります。
ある大手企業では、課長職から子会社の部長に出向する例がありました。それが総務部長となれば、賃金計算はもとより、安全衛生管理や労災保険請求などの部門を抱えることが普通であるのと、業界団体の集まりや地元の労働基準協会等で当該子会社が役員をしている場合などがあり、必然的にそのような会合等に出席するようになります。
その結果、労働災害防止、安全衛生管理、労務管理といったことに詳しくならざるを得なくなるのが普通です。当該地元の労働基準監督署の役職者と知り合いになることもあるわけです。
もっとも、その会社の職場では労働災害が多く、労働基準監督署の立入調査に部長自ら立ち会わなければならないことがあり、法令違反に関する是正勧告書を受領することになるかもしれません。安全管理特別指導事業場(略称=安特)や労働衛生管理特別指導事業場(略称=衛特)に指定される場合もないとはいえません。
担当部門の長として、都道府県労働局に呼ばれてつらい立場を経験することで、次の異動先での職務に必要な経験を得られるかもしれません。テレビドラマを筆者はほとんど見ませんが、異例の視聴率が評判を呼んだくだんのドラマの時、私の家内が「最終回くらい見なさいよ」と言いました。見始めてすぐ、「出向辞令」が頭に思い浮かびました。社内トラブルが多い社員は、一旦外に出さなければなりません。案の上の結末でした。
しかし、世の中では、そのような出向社員による社長が、出向先企業を世界的企業に発展するきっかけを作ることがあります。ヤマハ(川上嘉市氏)とアサヒビール(樋口廣太郎氏)の事例をご覧いただければうなずけることでしょう。ただ、安全衛生管理にまで目を向けていたかどうかは、筆者には知るよしもありません。
安全衛生管理の目的は、自社の生産要素である3つ(場所、設備、人)のうちの1つである人的生産力を維持向上させることです。人道的観点からも、労働災害発生を抑制する必要があります。そして労働災害は、時には生産要素の3つすべてに関わることがあり、生産活動(建設業では工事)が長期にわたって停止を余儀なくさせられることもあります。
労働安全衛生法では、これら3要素の健康診断として、労働者の健康診断、作業場所の作業環境測定、設備の定期自主検査の実施を定めています。安全衛生管理活動を活発化させた結果、労働災害が減少して、機械等の被害も減れば、生産性の向上につながります。また、労災保険給付が減ったことで労災保険料が安くなります。これは、「メリット制」と呼ばれ自動車保険と似たような制度です。労災保険料の減額(還付)は、企業にとって純利益に該当します。加えて、労働者のモラル(やる気)が増します。
建設業のある中堅ゼネコンの支店では、バブル期の工事が絶好調のころだったのでしょうが、労災保険料がメリット制で還付されるその額が、年間数億円に上ったそうです。このお金は、支店としての純利益の増加要因であることから、その手続に習熟していた女性職員は、支店にとってなくてはならない存在だったそうです。